タイトルの通り、ふと思って考えてみました。
■目次
なんでこんなことを思ったのか
数学の勉強をやり直そうと思って、先日「長岡先生の授業が聞ける高校数学の教科書」を買いました。
- 作者: 長岡亮介
- 出版社/メーカー: 旺文社
- 発売日: 2015/12/24
- メディア: 単行本
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しばらくほったらかしにしていたのですが、重い腰をあげてようやっとこの教科書を開き、「はじめに」の文章から読み始めたのですが、書いてある文章が
J-POPの人生応援ソングや尾崎豊の歌詞みたい
でなんか熱かったです。
長岡先生の熱いvibesがビシビシ伝わってきます♪
それで、「はじめに」を読んでいてふと思ったのですが、人工知能が進化し続けたら学問を人間に教える「先生ロボット」も出てくるかもしれないなと思いました。
技術的に可能として、
「はたしてロボットに勉強を教えて貰いたいと思うだろうか?」
という疑問がわきました。
人間とロボットの違いはなんだろうか?
「先生ロボット」が登場したとして、自分の場合、
「ロボットなんかに教えて貰ってたまるかよ!」
みたいな感情が先に来ると思います。
人からモノを教わる場合は何よりもまず、
- 「この人に教えて貰いたい」
- 「この人の言うことなら信じられる」
という気持ちがないと何かを学ぶことはできないということだと思いますが、恐らく、極限まで人間に近づいた「先生ロボット」が誕生したとしても、
心のどこかで
「えらそうに能書きたれやがって、所詮お前ロボットだろ?」
と軽蔑してちゃんと話を聞かないと思います。(自分がもし子どもだったらなおさらです)
で、じゃあいったい「所詮ロボットだから」と軽蔑するかしないかの基準はいったい何になるんだろうか?
もっというと
「人間とロボットの違いはなんだろうか」
と考えていたら、
「愛」があるかどうか
じゃないだろうかというのが自分なりの答えになりました。
愛とは何か?愛はモデル化できるのか?
機械学習で「愛」が獲得できるのであればまた違ってくるかもしれないですが、心や感情を数理モデルに置き換える研究は誰か既にやっているんでしょうか。
現在の人工知能は脳のニューロンを論理的な回路に置き換えて作られているようですが、人が愛を以て何かをするときの脳の動きが解析できれば人工知能に愛を教えることができるのかもしれません。
「愛」というとなんか宗教的というか、あいまいな表現として受け取られるかもしれませんが、ここで私が言いたいのは、
- 「子供がソファで寝てしまったから毛布を掛けてあげる」
- 「外人と食事をしていて、お箸が使いにくそうだからフォークとナイフを出してあげる」
のような行動を「愛」の例としたいと思います。
1の例も2の例も学習すればロボットでも同じような行動をとることができると思います。
人間の場合は学習をしなくても、相手のことを想うことにより、このような行動をとることができるのではないでしょうか。
厳密にいうと経験や教育・しつけを通して学習の上に行動しているような気もしますが、強引に定義するとすれば、
(入力するデータが少なくても)想像力によって、瞬時に行動(出力)を変えることのできる能力
でしょうか。
うーん、でもこれだと「愛」ではなくて「想像力」が本質になってしまいますね。
愛の結果として行動(出力)が得られると思いますが、もちろん愛は入力ではないので入力を処理する過程が愛ということになりますが、人間は常にだれでもに対して愛のある行動をするかというとそうでもないですしなんかもうよく分からなくなってきました。
まぁとにかく、自分なりの答えとして「愛」があるかどうかが人間とロボットとの違いだと思った次第です。
人工知能は人間の仕事を奪うのか?
人工知能が仕事を奪う日が近いみたいなことが言われるようになってきましたが、人間とロボットの本質的な違いが「愛」だとしたら、「愛」のある仕事をしている人はロボットには決して仕事を奪われないんじゃないでしょうか。
先生とか、人工知能に置き換わると言われる職業に当てはめてみると、
- 愛のない先生の授業 < 先生ロボット(優秀) < 愛のある先生の授業
- 愛のないタクシー運転手 < 運転手ロボット(優秀) < 愛のあるタクシー運転手
- 愛のない弁護士 < 弁護士ロボット(優秀) < 愛のある弁護士
みたいな式が成り立つと思いますし、どの仕事にもこの式は当てはまる気がします。
※単純に能力に対する対価で考えるとこの式のようにならないかもしれないが、人間は求められる能力を「愛がある」という付加価値で補えるでしょう。
あくまで自分なりの答え(仮説)ですが、なんとなく自分が生きている間くらいはこの式で生きていけると思うのでなんかすっきりました。
※自分なりの答えとは別に、長年「人間とは何か?」を研究されていらっしゃる阪大の石黒先生が出す答えが少し気にはなります。
参考
そもそも「愛」がどうのこうのと思ったのは、「愛は脳を活性化する」という本を結構前に読んでいたかもしれません。
※著者の松本さんは脳と脳を機械に置き換えるような研究をされている方で、タイトルに書かれている「愛が脳を活性化する」ということかなり論理的に書かれていらっしゃいます。
- 作者: 松本元
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1996/09/24
- メディア: 単行本
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結論
数学を人に教えることは能力さえあれば誰でも(ロボットでも)できることだと思いますが、誰が教えても同じ授業にはならないでしょう。
自分は、数学が苦手で文学部という文系のど真ん中に進んだのですが、長岡先生のような愛のある先生・熱い授業に学生時代に出合っていたら違う人生を歩んでいただろうと思います。冒頭に書いた「はじめに」を読む限り、長岡先生はきっと数学を愛していらっしゃるんだと思います。
自分が授業を受けた先生達は数学に関わらずですが、自分が教えている教科を愛している、自分の生徒たちを愛していると感じられない先生も少なからずいました。
もちろん、当時は気づかなかっただけで今思えば自分たちのことを考えてくださっていたんだなという先生もいらっしゃいます。
どんな仕事でも、自分の仕事を愛し、関わる人に愛情を以て接することが一番大切なんじゃないかなと長岡先生の教科書を読んで思った次第です。
そして、仕事をするうえで、関わる人(お客様や同僚、上司等)のことを想い、気持ちを込めて仕事をしていればロボットや機械にはその人は絶対にとって変えられないと思います。
なんか青臭い青少年の主張みたいな感じになってしましましたが(笑)、明日からもこの気持ちを忘れずに、日々仕事や日常生活を送りたいと思います。
追記
書き終わってからまた思ったのですが、
「マニュアル人間」という融通の利かない人、杓子行儀な人を指す言葉がありますが「マニュアル」通りに行動するのはロボット(機械)のもっとも得意とするところなので、「愛を以て仕事をすればロボットに仕事を奪われない」という私の仮説はあながち間違ってなさそうに思います。
逆にいうとこれからの時代は単純な「技術」や「能力」だけを追求していては生きていけない世の中になるんじゃないかと思いました。
「技術」「能力」の部分はロボットに任せて、人間はそれをどうすれば最大限活かせるかを考えて行動していくのが重要になってくるんじゃないかと思います。
「マニュアル人間」と言いますが、圧倒的な量のマニュアルをロボットにインプットする・学習させていけば、もしかしたらロボットは、「愛がある」と人間が感じるような行動を可能性がある気もしますが、個人的には難しいだろうと思います。
理由ですが、たくさんの入力をもとに学習していく過程で、恐らくロジックが矛盾するような状況が発生すると思います。
※プログラミングでいうとif文やelse文が複雑に絡まり合って、通らないパスが出てくるようなイメージでしょうか。
上記、記事内では書けませんでしたが人間とロボットの違いは「感情の有無」であるような気もします。
というより感情をロボットに実装してはいけないと思うのです。※感情自体を実装するのは問題ないかもしれませんが、感情を元に出力を変えるような処理は絶対に実装してはいけないと思います。
ロボットに感情とそれに伴う行動を実装した場合、例えば、
人間 「おい!ロボット、焼きそばパン買ってこいよ!」
ロボット 「は?誰に口きいてんだよ!?あーマジむかついた。こいつ殺しちゃおっと」
人間 「ぎゃー・・・」
みたいことも起こり得ます。
(仮に感情を実装できるとしても)ロボットに感情を持たせてはならないという意味では、やはり人間とロボットの違いは感情の有無になるのかもしれません。
感情があるというのは記事のように愛のある行動も取れるという強みにもなりますが、「怒り」「反発」といった負の感情もあります。
感情があるということが人間の強みでもあり弱みでもあり、感情がないということがロボットの強みでもあり、弱みでもあるということでしょうか。
じゃあ、
ポジティブな感情と行動だけを持ったロボット=史上最強の存在
って一瞬思いましたが、それって結局優秀なロボットに過ぎないんだなと気づきました。
ロボットに感情を持たせるかどうか、真面目に国会とかテレビの討論とかで議論される日が来たりするのかもしれません。